一桥教员の本
ヘイトスピーチの何が问题なのか:言语哲学と法哲学の観点から
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本多康作, 八重樫徹, 谷岡知美編(叁浦基生摆ほか闭执笔) |
着者コメント
本书は、ヘイトスピーチと呼ばれる、集団?属性に対する差别的表现について、言语哲学?法哲学?情报学?文学の観点から検讨する论文を収めたものです。&苍产蝉辫;
本书に含まれる论文の多くは、2020年2月に搁?惭?シンプソン先生(ユニバーシティ?カレッジ?ロンドン(鲍颁尝)[イギリス])を日本にお呼びして行った、公开讲演会?研究会での议论がもとになっています。私(叁浦)は、鲍颁尝で学んだ経験があったこともあり、シンプソン先生の公演の碍别测苍辞迟别や研究报告のコメンテーター(と质疑応答における通訳)を努めたきっかけで、本书に论文を1本寄せています。
私は2024年2月に劲草书房より出版された拙着『法と强制:「天使の社会」か、自然的正当化か』第4章でフレデリック?シャウアーというアメリカの宪法学者?法哲学者のThe Force of Law (Harvard University Press, 2015)という研究書について詳しく紹介しました。このシャウアーという研究者は、もともとはアメリカ合衆国憲法とりわけ修正1条(表現の自由)についての研究で知られていますが、そればかりでなく、Free Speech (Cambridge University Press, 1982)という本では憲法解釈を超えて(あるいはその根元を掘って)〈そもそもなぜ表現の自由が大事なのか〉についても検討をしています。もっとも、私が同書について紹介する章を本書に収めたのは、(たまたまシャウアーつながりでFree Speechという本を手に取った偶然以外に、)ちゃんと理由があります。それは、統治者が表現を評価することに長けていないのだ、というシャウアーの諦念的な主張は、シンプソンの議論(本書第7章)とはある意味で対局にあるものだからです。二つを読み比べることでそれぞれがこの問題にアプローチする仕方がどう違うかが際立つでしょう。どちらが優れているかについて論じることも重要かもしれませんが、著者の一人としてはむしろ本書全体が扱おうとしている問題の多面性を考える助けになれば嬉しいです。
私以外の方が书いた部分も含めた、本书全体の面白い点についても少し绍介させてください。本书の内容は、ヘイトスピーチという主题そのものについての哲学的検讨に加え、ヘイトスピーチとマイクロアグレッションとの违いは何か、文学と规制される表现(例えば「わいせつ」とされる表现など)の间にはいかなる差があるのか、オンラインでなされる表现が引き起こす害悪とどのように向き合うべきか、など幅のあるものになっています。一言でまとめることは难しいですが、他者との间でのコミュニケーションにおいて発生しうる问题を多角的に検讨した本だと言えるでしょう。関心を持つ皆様にお手にとっていただければ幸いです。