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令和4年度 学部学位记授与式 式辞

令和5年3月17日
一桥大学長 中野 聡

皆さん、卒业おめでとうございます。本日、学位を授与された皆さんのご両亲、ご家族、ご亲族そして関わりの深い方々にも、教职员一同とともにお祝いを申し上げます。

今年の学部学位记授与式は、2019年3月以来、実に4年ぶりに、4学部の卒业生が一堂に会しての开催となり、ご家族の皆さんにも国立キャンパスの杜にお出でいただくことができました。未だ予断を许さぬとはいえ、コロナウイルス感染症2019の长いトンネルからの出口に向けて社会が歩みを进めるなか、皆さんと、この兼松讲堂で卒业式を行えることを、心から喜びたいと思います。

皆さんが大学生活を送ったこの4年间が、时代の大きな転换点として将来记忆されていくことは、ほぼ间违いがないでしょう。しかし、転换点とは、往々にして、その涡中にいるとき私たちには、时代がどこに向かっていくのか、その方向が见えません。コロナ2019によるパンデミックは、大きな犠牲とともに、社会に深甚な変化をもたらしてきました。昨年2月に始まったロシア连邦によるウクライナに対する侵略戦争もまた、许してはならない大きな犠牲を无辜の市民にもたらし、国际社会を激しく动揺させています。世界経済は40年ぶりのインフレーションに见舞われています。私たちはこれらの出来事に翻弄されながら、世界の行方を、なかなか见通すことができません。

そのような时こそ、50年、100年という単位で世界を眺めることを、とりわけ未来を担う皆さんにはおすすめしたいと思います。そして皆さんと共に、一桥も、50年、100年という単位で世界を眺め、自らの役割を问い直す时节が巡ってきました。明治维新后まもなく作られ、近现代の日本と共に歩んできた様々な组织?団体が、いま、あい前后して150周年を迎えています。明治8年、1875年建学の本学も、2025年に创立150周年を迎えます。

いまから100年前の卒业风景をふり返ってみましょう。1923年です。キャンパスはまだ、戦后その大学の名前となる一桥の地にあり、一桥学园と呼び习わされていました。ここで学校制度の歴史に立ち入る话は省略しますが、建学から约半世纪を経たこの年、一桥は、皆さんが本日授与された学士号を、东京商科大学として初めて大学本科の卒业生に授与しました。しかし、同年9月1日の関东大震灾により学园は壊灭的な打撃を受け、まもなく此処国立へのキャンパス移転を决断して一桥の地を离れることになります。大学として最初の卒业生を送り出した年はまた、一桥における学园の歴史がいったん终わりに向かう年ともなりました。

この年の卒業生は640名。全て男性でした。うち164名が学士試験の合格者すなわち第一回の学部卒業生で、戦後一桥大学の初代学長となる中山伊知郎もその中にいました。このとき同窓会?如水会が主催した祝賀会の写真や記録が、当時の会報に掲載されています。最古参の如水会員として卒業生を迎える祝辞を送ったのは、およそその半世紀前に一橋の原点たる商法講習所を卒業して、実業家?教育者として活躍していた成瀬隆蔵でした。速記に残された5分間スピーチの数々からは、第一次世界大戦の戦争景気が去った不安はあったものの、明るく冗談が飛び交う祝賀会の様子が窺われます。震災はもちろんのこと、その後の日本と世界の激動の歴史を予測することは、このときは誰にもできなかったことでしょう。

それから50年後、いまから50年前の1973年。戦後日本が年率10%を超える高度経済成長を経験した時代の最後の年です。一桥大学は、学部卒業生818名を送り出しました。女性は14名。7名が留学生でした。このときの祝賀会で卒業生を迎えた同窓会?如水会の理事長?竹村吉右衛門は、関東大震災の翌年、東京商科大学の第2回1924年卒業で、ここでも半世紀先輩の実業人として卒業生に温かい言葉を送っています。写真を見ると、100年前の祝賀会とは様変わりして現代風ではありますが、ネクタイ姿の男子ばかりで、多様性にはまったく欠けていたと言わざるを得ません

そして、それから50年後の2023年。一桥大学は、学部卒業生の皆さん977名を送り出そうとしています。女性は275名。40名が留学生です。そして、壇上のご来賓?如水会の杉山博孝理事長、祝辞をいただく辻村みよ子先生のおふたりもまた、実業で、学問で、社会で、今日指導的役割を果たし続けておられる、皆さんの半世紀先輩です。

こうして1923年、73年、2023年と、いずれも、现役で活跃する半世纪先辈が卒业生を祝う一桥の卒业风景には、50年?半世纪というストライドで世代をつないできた一桥の卓越したコミュニティとしてのあり方が投影されています。そしてこのように学园の歴史が连绵と続くなかで、各时代の卒业生は、それぞれに予测不可能な未来に向けて乗り出し、社会の课题と取り组み、指导的人材として活跃してきたのです。

もちろん、取り组まなければならない课题は、时代とともに大きく変化してきました。何が変化してきたのか、しなければならないのか、これからの皆さんには何が期待されているのか、辻村みよ子先生も先辈として皆さんにお话し下さることだと思いますが、私からもひとつお话をさせていただきたいと思います。

ちょうど50年前、1973年の卒业式が行われていた顷、日本でも世界でも大きな话题を呼んでいたのが、その前の年に出版されたローマ?クラブ报告『成长の限界』でした。地球规模で进行する「几何级数的成长」の限界を论じ、当时まだ珍しいコンピュータ?シミュレーションを活用した报告は、「世界人口、工业化、汚染、食粮生产、および资源の使用の现在の成长率が不変のまま続くならば、来るべき100年以内に地球上の成长は限界に到达する、最も起こる见込みの强い结末は人口と工业力の、かなり突然の、制御不可能な减少であろう」などと结论して「ゼロ成长」政策への転换を提唱しました。

地球を一つのシステムとして捉えるマクロ予测モデルの先见性は明らかでしたが、各専门分野からの反発は强く、シミュレーションの前提や手法も强い批判を浴びて、早くも1980年代には「外れた未来予测」として扱われるようになり、话题になることも次第に少なくなりました。食粮生产などでは、『成长の限界』论を突破するような増产が実现しています。未来予测の当否を论じるには、まだあと50年残されていますが、これまで世界経済の成长は続いており、とくに同书の出版后、工业化と経済成长の波が先进主要工业国からアジアNIES、东南アジア诸国、中国、インドなどに拡がったことが、贫困や格差の问题の一方で、グローバルに恩恵をもたらしてきたことも事実です。

その一方、21世纪の第1四半期が终わろうとしている现在、気候変动に代表される地球环境问题の深刻化は谁の目にも明らかとなっており、『成长の限界』の未来予测が外れ続けて、世界経済の成长が続き、その恩恵でグローバルな格差の是正が実现していくとしても、そのことが気候変动など地球环境问题のさらなる深刻化を招いてしまうのではないかというジレンマが私たちの前には立ちはだかっています。

ふり返れば、過去150年、日本は、欧米以外では世界に先んじて工業化と経済成長に著しい成功を収め、先進工業国として大きな恩恵を被ってきました。一橋が学問と人材育成を通じてその成功に大きく貢献してきたことは言うまでもありません。だとすれば、世界史のなかで経済成長の先行者としての果実を享受してきた日本を含む先進工業国が、誰一人取り残すことのない持続可能な人類社会の発展に対して責任を果たすことが求められている現在、それは、この半世紀の間に世界とつながる学術コミュニティに向けた歩みを進め、世界から多くの留学生が学ぶ大学となった一桥大学の、そして一桥大学卒業生のミッションでなければならないと思います。

そしてもちろん、それは、卒业生の皆さんだけでなく、年齢を问わず私たちの全てが现在(いま)取り组まなければならないミッションです。一绪に世界を救いましょう。

最后に、この兼松讲堂から旅立ったあと、激动する世界の何処に居ても、皆さんは、一桥コミュニティの一员であり続けることを忘れないで欲しいと思います。国立キャンパスの杜は、皆さんとの再会を、いつでも、心待ちにしています。

皆さん、あらためて卒业おめでとうございます。ご清聴ありがとうございました。

&濒迟;参考&驳迟; 
『如水会会报』第16号(1923年5月)
『如水会会报』第517号(1973年5月)
顿?贬?メドウズほか着、大来佐武郞监訳(1972)『成长の限界──ローマ?クラブ「人类の危机」レポート──』ダイヤモンド社

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