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令和5年度 学部学位记授与式 式辞

令和6年3月15日
一桥大学長 中野 聡

 皆さん、卒业おめでとうございます。本日、学位を授与された皆さんのご両亲、ご家族、ご亲族そして関わりの深い方々にも、教职员一同とともにお祝いを申し上げます。

 今年こうして卒业式に临む皆さんの多くは、2020年4月に入学しました。しかし、新型コロナウイルス感染症パンデミックにより、入学式は中止。授业开始も5月の连休明けに延期され、全授业がオンラインに移行して、海外、远方、あるいはキャンパスのすぐ近くから、惯れない锄辞辞尘越しの授业やゼミとなり、まことに不安で不本意な学生生活のスタートとなりました。その后も、感染拡大防止のために、授业、课外活动、アルバイトなど、ひとりひとりの日常生活は厳しく制限され続けました。

 学生生活も后半に入ると、今度は一転して、世界が、日本が、平常への復帰を急ぎました。ウクライナやパレスチナにおける大规模暴力と人道危机は人々の良心を揺さぶり、本年元旦には能登半岛地震が発生して、多くの犠牲者と巨大な被害をもたらしました。社会?経済の分断、気候変动による灾害の激甚化、生成AIの衝撃、加速する少子高齢化など、避けて通れない様々な课题が日本そして世界を覆っています。

 こうして、パンデミックの経験は、多くの人々にとって急速に过去の出来事となりつつあります。その一方、社会には、あのときに蒙った被害から、いまだに回復できない人々も居ます。感染症をめぐって、误解?偏见や差别がいかに拡がりやすいかということも、あのとき私たちは知りました。忘れないでおきたい経験だと思います。

 学生生活の大事な时间や経験をパンデミックによって夺われた皆さんにも、この4年间については様々の思いがあることでしょう。もっと学びたかった、游びたかった、などという「もの足りない」思いは、多かれ少なかれ共通しているのではないでしょうか。

 そのような皆さんに、今日は、皆さんのようには一桥大学を卒業できなかった人、にもかかわらず懸命に生きたことで、結果として、同窓の友人たちとともに「一橋」の良さを今日に伝える存在となった、ある人物を紹介したいと思います。

 その人は、铃木重雄といいます。

 1912年に宫城県唐桑町(现?気仙沼市)に生まれ、上京して、1931年に东京商科大学予科(旧制高校にあたる。当时は予科3年?学部3年)に进学しました。故郷の秀才として外交官をめざし、ボート部で汗を流すエリート学生としての生活を満喫した铃木は、予科1年のときに起きた「笼城事件」では、クラス1年4组(薫风会)の仲间と血判状を认めて闘った正义汉?热血汉でもありました。级友たちはのちに、学生时代の铃木を、头脳明晰、记忆力抜群、雄弁と行动力を备えたクラスのオピニオンリーダーであったと述べています。

 ところが铃木は、学部2年の1935年、最も亲しかった学友(渋沢喜一郎)に、思想上の理由から海外に亡命すると嘘をついて、退学届も出さずに突然失踪しました。それから、アジア太平洋戦争の时代、戦后復兴を経て、高度成长の时代に入った1960年になって、再び同じ学友(渋沢)の前に姿を现すまで、実に四半世纪?25年もの间、铃木は、まったく消息を絶ってしまいます。

 その理由は、ハンセン病でした。

 ご存知のように、1873年に「らい菌」を発见したノルウェー人医师の名前をとるハンセン病は、主に皮肤と神経を犯す、感染力は弱く进行も缓慢な慢性の感染症です。治疗法が确立された现代では、完治する病気です。しかし、有史以来、差别と偏见の対象となり、近代において感染症として特定されると、科学の名の下に各国で隔离政策が进められました。しかし、1943年にはアメリカで治疗薬「プロミン」が开発されて完治する病気となり、各国で隔离政策が廃止され、完治した元患者の社会復帰も进みました。

 ところが日本では、1953年に制定された「らい予防法」のもとで隔离政策が継続され、患者?元患者に対する社会の差别と偏见の是正は进まず、社会復帰や家族?故郷との再结合も阻まれてきました。「らい予防法」が廃止されたのは1996年のことで、同法の违宪国家赔偿裁判で国が败诉して、众参両院および国が正式に谢罪して、患者?元患者の生活の安定と名誉回復に向けた取组が始まったのは、ようやく2001年のことでした。

 このような歴史のなかで、1935年、铃木重雄は失踪し、この社会から姿を消しました。それから2年以上にわたり、铃木は、死に场所を求めた苦悩の放浪の果てに、瀬戸内海にある国立疗养所长岛爱生园にたどり着き、本名を捨て、田中文雄として入所して、再生の道を歩みました。アジア太平洋戦争下から戦后にかけての入所者运动、その后は患者?元患者の生活安定と社会復帰をめざす运动で大きな足跡を残した彼の人生については、评伝および本人が残した膨大な遗稿が出版されており、その歴史的评価は、现在も最前线の研究者が取り组んでいるテーマです。门外汉の私に言えることは限られていますが、皆さんにも是非知って欲しいと思うことがあります。

 铃木は、病を得たのかもしれないと薄々感じ始めてからの心の动揺を、手记で生々しく回想しています。病名を宣告され失踪してからの苦悩の旅では、北海道登别から南洋统治下パラオ诸岛まで、病を隠して各地を彷徨いました。手记にはエリート学生であった铃木自身が、病をめぐる社会の无知?误解?恐れを内面化していたこと、絶望して死に场所を求めながら実は生きることに执着する姿が率直に缀られていて、パンデミックの日々を通り抜けてきた私たちが今いちど噛みしめるべき経験と教训が伝わってきます。

 彼が国立療養所の存在を知るのは、彷徨の果てに、たまたま、北條民雄の小説を目にしたからでした。一桥大学に程近い東村山市にある国立療養所多磨全生園で生涯を終えた、名作『いのちの初夜』で知られる作家です。これらを通じて、鈴木は、自分の無知を知っていくのです。

 铃木は、やがて完治して元患者となり、入所者の社会復帰を促进する运动で指导者的存在となりました。しかしその彼にとってさえ、本名?铃木重雄、そして元患者であることを名乗って社会復帰することは、何よりその心の壁を超えなければならない本人にとって、大きな困难が伴いました。

 ここで学长として少し夸らしく皆さんに伝えたいのは、このとき同窓の仲间たちが、铃木の背中を押す大きな役割を果たしたことです。1960年、25年を経て再会した学友(渋沢喜一郎)は、全てを承知したうえで、再会するなり泣いて铃木の肩を抱き、家族で暖かく迎えました。それは铃木の社会復帰の第一歩を记す出来事でした。

 まもなく铃木は、1年4组クラス会「薫风会」に迎えられ、同窓会の常连となります。最も多くの戦没者を出した学年のひとつでもあり、戦地からの生还者でもある同窓の友人たちは、この顷、戦后の復兴?高度経済成长を支える公司人として各界で活跃していました。彼らからの物心両面のサポートは铃木に大きな力を与え、やがて、本名の铃木重雄として故郷?宫城県唐桑町の地域振兴に尽くし、1973年には唐桑町长选挙で大接戦を演じて、ハンセン病元患者の社会復帰の歴史に一页を刻むことになったのです。

 絶望のどん底から再生して、ハンセン病患者?元患者のひとりとして、現実と向き合い、課題解決のために全力を尽くした鈴木重雄の「すばらしき復活」の物語からは、やや我田引水ではありますが、来年の創立150周年に向けて一桥大学が掲げているメッセージ「ひとつ、ひとつ、社会を変える。」に込められた、少しずつでも社会を改善する実践の志と営みのロール?モデルを見出したいと思います。

 そして、21世纪までかかった日本のハンセン病差别克服に向けた遅々たる歩みのなかで、1960年代という早い时期から、公司エリート揃いのクラスメートたちが铃木を心から応援したという、気持ちの良い事実については、同窓のよしみという无条件の善意を回路に再会できたことで、彼らもまた、ハンセン病差别の问题を虚心に学ぶ幸运に恵まれたのだと考えたいと思います。

 鈴木は卒業できませんでした。しかしその後の人生で、苦難を乗り越え、同窓の友人たちとともに、社会改善の実践に一途に邁進する「一橋」スピリットを体現したのです。そしてこのことは、一桥大学が人材育成の最高学府として真に「卓越したコミュニティ」であることの証明が、ひとえに一橋を出てからの皆さんの生き様にかかっていることを示すエピソードの、そのひとつに過ぎません。

 この大学には、スーパーカミオカンデも、放射光施設も、iPS細胞研究所も附属病院もありません。そんな一桥大学にとって、私たちが卓越した学術コミュニティであることのエビデンスは、キャンパスの中にではなく、外の世界で活躍する「一橋コミュニティ」、すなわちこれからの皆さんの中にあります。その思いをもって、「ひとつひとつ、社会を変える。」ことを通じて世界を救いに旅立つ皆さんに向けて、私たち教職員一同は、心からエールを送りたいと思います。

 最后に、この兼松讲堂から旅立ったあと、激动する世界の何処に居ても、皆さんは、一桥コミュニティの一员であり続けることを忘れないで欲しいと思います。国立キャンパスの杜は、皆さんとの再会を、いつでも、心待ちにしています。

 皆さん、あらためて卒业おめでとうございます。ご静聴ありがとうございました。

&濒迟;参考&驳迟; 
田中一良『すばらしき復活 らい全快者 奇蹟の社会復帰』すばる书房、1977年。
田中文雄『失われた歳月(上?下)』皓星社、2005年。
大轩节夫「血判状と铃木重雄君」笼城事件史専门委员会『一桥笼城事件(昭和6年10月)』笼城事件を偲ぶ会、1982年。
北条民雄『いのちの初夜』1936年。青空文库()
国立ハンセン病资料馆ウェブサイト()

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