令和7年度 学部入学式 式辞
令和7年4月6日
一桥大学長 中野 聡
新入生の皆さん、一桥大学入学おめでとうございます。また、ご両親、ご家族、ご親族そして関わりの深い方々にも、教職員一同とともにお慶び申し上げます。
本年9月24日をもって、一桥は创立150周年を迎えます。今日は入学式ですから、150年前(明治8年、1875年)の新入生、成瀬隆蔵の话から始めましょう。
江戸时代の末期に旗本成瀬家に生まれた隆蔵は、このときまだ20歳前で、明治という新时代に自分が何者になれるのか、模索の日々を送っていました。英语が得意で、武家の出身ではあったけれどもこれからの时代は経済だということで、実业に兴味があった成瀬は、まず、福沢諭吉が开いた庆应义塾に入り勉强していました。
このときすでに庆応は叁田にありました。その叁田から小一时间歩くと银座に出ます。気軽に散歩できる距离です。银ブラですね。そこで実际に叁田から歩いたのかどうかは分かりませんが、后年の回想などによれば、ある日、成瀬は银座尾张町、现在の银座六丁目辺りを散歩していて、そこで、开校したばかりの本学とめぐり逢いました。
それは、「あ、見つけた」という感じだったのではないかと想像します。というのも、成瀬は実業に関心があったので、前々からこの学校のことについては新聞で読んで興味があったけれども場所が分からなかった。それを発見した、ということだったようなのです。皆さんも機会があれば、大変にお洒落な場所ですから、訪れてみてください。ギンザシックスの真ん前に、創立百周年のおりに設置された「一桥大学発祥の地」という小さな記念碑があります。
そのとき本学は、いわゆる银座炼瓦街のど真ん中に仮校舎を置いていました。「银座大火」と呼ばれる3年前の大火事のあと、西洋の都市を手本に拡张?舗装した大通り(现在の银座通り)がつくられ、その両侧に、西洋风の2阶建てバルコニー付き炼瓦建筑が建ち并びました。それが银座炼瓦街です。その光景は文明开化の象徴として锦絵にも描かれ、今日に伝えられています。周囲に江戸の街并みが広がる中では非日常の空间であり、街はいつも大势の见物人で賑わっていました。
そのような炼瓦街の2阶に学校はありました。そこでアメリカ人の教授が20名余りの若者(そこには日本人だけでなく、欧米人もいました)に向かってビジネスなるものを教えている。その学校の名は商法讲习所。英语にすればビジネス?スクールです。それは例えてみれば、开催间近の贰齿笔翱2025大阪?関西万博の会场で未来社会を体験するような、キラキラした光景だったのではないでしょうか。
この出逢いのあと、成瀬隆蔵は本学に「転校」しました。もちろん现在とは仕组みが违いますから、成瀬は庆応义塾の立派な出身者としても知られていることを付け加えておきます。まもなく商法讲习所は尾张町の仮校舎を闭じて、お隣の木挽町(东银座)に最初の本格的な学び舎を开くことになります。
この商法讲习所を创立したのは、岛津藩(鹿児岛)出身で明治政府の外交官として活跃していた、当时まだ齢30に満たない森有礼でした。森は、初代の驻在外交官としてアメリカに滞在するなかで、国家発展のために学校教育制度を确立する必要性を确信して、帰国后、文明开化の先头に立つ启蒙団体?明六社を结成するとともに、私财を投じてこの学校を始めたのです。その建学の原点は、世界水準の商业教育を通じて日本の近代化を担い、国际的に活跃できる指导的人材を育成することでした。
信念をもって日本の近代化を果断刚直に追求した森は、のちに初代文部大臣に就任しましたが、43歳で国粋主义者の兇刃に毙れることになります。このような人物でしたから、文明开化の象徴たる银座炼瓦街に仮校舎を开いたのも、森らしい尖った选択であったと考えるべきでしょう。
开学から2年后の1877年、商法讲习所は、第1回卒业生として、成瀬隆蔵、森岛修太郎の2人を送り出しました。同时に2人とも商法讲习所の助教に採用され、その后の人生において、成瀬は本学および日本の商业教育の発展に尽くすとともに、第二次世界大戦前の叁井财阀を支えるなど実业人としても活跃し、森岛は日本における簿记学?簿记教育の草分けとして活跃していくことになります。
その一方、学校の経営は、森ひとりの良く為すところではなく、商法讲习所は开设当初からしばしば経営难に陥りました。助教に採用された成瀬も、ろくに给料が出なかったと、思い出话でこぼしています。しかし本学は、その建学の志に深く共鸣した渋沢栄一や福沢諭吉らの协力を得て、その后何度も访れた存続の危机を乗り越えて、1884年には东京商业学校、87年には高等商业学校、1902年には东京高等商业学校、そして1920年には晴れて官立(现在の国立)大学に昇格して东京商科大学となりました。
このように成長していくなかで、本学はその教育研究領域を商学?経済学から法学、社会学、歴史学、哲学など社会科学と人文科学の諸領域に広げながら、各分野の研究で第一人者でもある教員が、ゼミなどを通じて一人一人の学生と向き合う丁寧な少人数教育と、自由と個性を尊重する独自の学風を育んできました。そして、第二次世界大戦を経た1949年、本学は「社会科学の総合大学」を謳う新制国立大学として一桥大学と名を改め、現在に到ったのです。
さて、ここまでの话を闻いて、この大学が今でも银座にあれば良かったのにと思った人もいるでしょう。また、银座なのになぜ一桥?今は国立にあるのになぜ一桥?と思った人もいるでしょう。先ほど述べたように、本学は、建学の翌年から银座木挽町(东银座)に校舎をもちましたが、やがてそこも手狭になり移転して、1885年から1930年まで45年间、现在の千代田区一ツ桥にメイン?キャンパスを営みました。もちろん、校名の由来は此処に発します。
しかし、1923年の関东大震灾を契机に本学は郊外移転を决断して、大学町として新たに开発された国立および小平にキャンパスを移転しました。本格的なカレッジタウンの建设は、日本で初めての试みでした。そして、1927年(昭和2年)、皆さんがいまこうして入学式を行っている兼松讲堂が、江戸の街に银座炼瓦街が忽然と现れたのと同じように、见渡す限り雑木林のほかにない武蔵野の杜に忽然と出现しました。以来、一世纪近くにわたって、本学はこの兼松讲堂で全新入生を迎え、全卒业生を送り出してきました。皆さんも、その列にいま加わったのです。
一方、千代田区一ツ橋には、今日、23階建ての学術総合センターが建ち、その中に一桥大学千代田キャンパスがおかれ、グローバルMBA、社会人向けMBAやビジネス?ロー専攻などのプログラムが展開しています。やがてそこで学ぶ皆さんもいることでしょう。またその隣には、日本屈指の大学同窓会である如水会が所有?経営する14階建ての如水会館があります。皆さんとは、そこで行われる新入生歓迎パーティーで改めてお会いすることになります。
それにしても、1949年に新制大学になったときには、すでに本学は国立と小平にあったのに、なぜ一桥大学になったの?という、新入生の皆さん誰もが感じて良い疑問については、実は昨年の入学式でくわしくお話をさせていただきました。今でも大学ウェブサイトに掲示しています。
要点を掻い摘まんで言えば、1949年に学生?教职员の投票で圧倒的多数の支持を得てその名に决まった「一桥」とは、地名にして地名にあらず、この大学に集う人々にとっての「私たちらしさ」を示し、个性的でありたいと愿う、この大学をめぐる人々の强い思いが表れた「名乗り」だったのではないかと、私は考えています。
それでは「一桥」という「名乗り」に、人々は、どんな「らしさ」を込めてきたのか。私の頭に浮かぶのは「志あるリアリスト」というようなイメージです。すなわち、現実に気をもみながら、学問的には実証を、実践的には結果に責任を負うことを大事にしたうえで「ひとつ、ひとつ、社会を変える。」すなわち社会を改善する高い志をもち、現実と向き合う人たち。これがいちばん「一桥らしい」と感じます。もちろん、その答えはひとりひとり違っていて良いと思います。
いずれにせよ、何かしら「一桥らしい」と皆が感じてきた学風と気風のもと、集い、巣立っていった人材は、長い歴史を通じて社会のさまざまな領域で課題解決のためにすぐれた指導力?分析力?判断力そして人間力を発揮してきました。そして、この卓越した学術コミュニティが生んできた人材に対する高い評価と期待こそが、第1回卒業生の成瀬?森島から今日に到るまで、社会に貢献する人材育成の最高学府としての本学の名声の基となってきたのです。
まさにそのような意味で、このあとご来賓としてお話をいただく三菱地所特別顧問?如水会理事長の杉山博孝さん、そして三井住友銀行頭取CEOでこの三月まで全国銀行協会の会長を務められた福留朗裕さんは、第1回卒業生?成瀬隆蔵から連綿と続く、実業の世界で高く評価されてきた一桥人材の活躍を体現する方々です。後ほど素晴らしいお話をいただけることを楽しみにしております。
その一方、ここで強調したいのは、一桥が、世間一般で見られているような実業界エリートを遥かに超えた多様性をもって社会に人材を送り出してきたことです。今をときめくアーティスト、映画監督、漫画家、絵本作家などクリエイティブの世界だけ見ても、この小さな大学に芸術学部でもあったのかと思わせるほどです。法曹界や公認会計士などのプロフェッショナルの世界での活躍は当然のこととして、実は医学部がないのに一桥出身のお医者さんの同窓会さえあるのです。事ほど左様にユニークな卒業生の多様性について言い出すと切りがありません。
このようにやがて多様な进路を歩んで行く仲间达が、学生时代には自由を謳歌し、失败を粮にして、学生生活を思い切り楽しみ、卒业してからは、それぞれの人生の営みを自己の责任において全うしようとする人々の、世代?性别?国籍などを超えたフラットなコミュニティ。それこそが「一桥」の魅力ではないか、あるいはそういう「一桥」でありたいと私は考えています。
もちろんここで私は皆さんにヘンテコなエリート意识や伝统精神を叩き込もうなどと思ってこんなことを言っている訳ではありません。今日ここまで述べたことは、学生生活を自然体で送り、卒业して社会に出て、时间がたって、段々とそんな风に思えてくるようなことで良いと思っています。むしろ皆さんには、色々な意味で殻を破って、学生生活の幅を縦に横に拡げて欲しいと思います。
まず日本の高校から一桥に進学した皆さんには、日本という殻を破って、縦にも横にも経験を拡げて欲しいと思います。150年前には日本の近代化のために創立された商法講習所でしたが、21世紀の一桥は、「日本及び世界の自由で平和な政治経済社会の構築に資する知的、文化的資産を創造」することをミッションとする大学です。そして本年も、30人の私費?国費等の留学生の皆さんが、広い世界から一桥を選んで入学しました。また今年度は延べ300人を超える交流学生が世界から一桥に来て学ぶ見込みであり、毎年100名を大きく超える皆さんが一桥から交流学生として世界各国の大学で学んでいます。これら全ての学びが組み合わさって豊かな経験となり、皆さんの未来が開けていくことを楽しみにして欲しいと思います。
それから皆さんには文系?理系という殻、あるいは一桥は文系だというレッテルを破って欲しいと思います。そもそも社会科学がいわゆる文系だという決めつけ自体がもはや許されません。地球環境、人口減少、ウェル?ビーイング、生成AIなど、思いつく諸課題どれをとっても文理融合課題であることは明らかです。そのような時代認識にも立って、本学は、2023年4月にソーシャル?データサイエンス学部?研究科を創設して、今年3年目に入りました。まずはこの大学のなかで、皆さんの手で、文系?理系の殻を破りましょう。
さらに皆さんには、東京科学大(サイエンス?トーキョー)、東京外国語大学との三大学連合による複合領域コースという学際コースを習得できる大きなチャンスが開かれています。津田塾大学、お茶の水女子大学、多摩地区の国立5大学間の単位互換制度も利用できます。これらの機会を、知見を広げるためだけでなく、一桥の殻を破って、科学大?外大など他大学の学生たちと本気で交流して仲間になる機会として欲しいと思います。
異なる大学、異なる分野の仲間同士の交流は、皆さんの学生生活を楽しく彩り豊かにするだけでなく、学生を含めた若い世代の起業(スタートアップ)を促進して社会経済を活性化していくという意味でも、今、求められている課題とも言えます。一桥大学では、昨年11月から大学発スタートアップ支援事業を開始して、国立の街角に一桥大学インキュベーション?ベースもオープンしました。そこでは、先輩実業家の皆さんや他大学も巻き込んだ学生交流の機会を拡げるイベントなどを通じて、皆さんの視野と経験を文字通り縦にも横にも拡げるお手伝いをしています。是非、参加してみて下さい。
話が長くなりました。成瀬隆蔵が、銀座煉瓦街でこの学校を見つけてから150年。皆さんも、人それぞれに一桥を見つけ、知り、選び、見事合格して、ここに集うに至りました。これから皆さんは、どのような学生生活を送り、未来を築いていくのでしょうか。とても楽しみにしています。そして、150年の歴史を歩んできた先輩たちに負けず、皆さんが、この「一桥」から、望ましい未来に向けて「ひとつ、ひとつ、社会を変える。」次代の担い手に成长していくことを、心から期待しています。
皆さん、あらためて入学おめでとうございます。
ご静聴ありがとうございました。
付记
银座尾张町仮校舎をめぐる成瀬隆蔵が语った复数の回顾谈は必ずしも首尾一贯していないことが酒井雅子氏の研究によって详细に検讨されています。式辞では、このことをふまえて私の想像を述べてみました。
参考
酒井雅子「商法講習所と鯛味噌屋─一桥大学の源流を求めて」『一桥大学創立150年史準備室ニューズレター』2号(2016年3月)。